2015年8月25日火曜日

紛争解決請負人 伊勢崎 賢治さん

2015年8月25日

 戦争の始まりは、よく報道されるが、収束はあまり報道されていない。

実際にどのように戦争、紛争が終結されるのか、初めて知った。






伊勢崎 賢治(いせざき けんじ、1957年7月6日 - ) ウィキペディアより



 東京外国語大学総合国際学研究院(国際社会部門・国際研究系)教授。

NGO・国際連合職員として世界各地の紛争現地での紛争処理、武装解除などに当たった実務家としての経験を持ち、紛争屋を自称する。

現在は大学教授として教務する傍ら、評論家としてメディアにも出演しており、紛争解決請負人とも呼ばれる。






伊勢崎賢治 (@isezakikenji) | Twitter


Posted by 藤原 節男 on 2015年8月24日


魂の仕事人 その1 


人材バンクネット より

インドへ国費留学

教授の突然の死にショックを受けましたが、とりあえず大学院に進むことにしました。普通に社会に出て企業に就職することは考えなかったかって? うーんそれは考えなかったですね。なぜなんでしょうね……。でも、大学院でこの先、何かあるんじゃないかな〜って漠然と思ってたんでしょうね。
 で、大学院で都市計画を学びました。おもしろそうな学問領域だったというのと、みんながやってないということもありましたし、いわゆる新しいものに魅かれたわけです。でも勉強してみたらこれも中身のないものだった。結局「都市計画」といっても日本やアメリカなんかの物質的に満たされた先進国で暮らす人のための学問だったんです。

 またしても失望して、その後はほとんど惰性で大学院生活を送っていたのですが、卒業間近のときに、偶然大学の掲示板でインドの政府国費留学生募集を見つけた。当時日本の都市計画の学問は国内にしか向いてなかったんですが、日本の外、特に、貧困層に向けてみたいと思ったんです。とはいっても、貧しい人を救いたいという気持ちではなく、この新しい学問を生かす舞台として漠然とインドなんかいいかもなあと思ったんです。インドはゴチャゴチャとしてるイメージがあって、当時は社会主義でしたから。じゃあ「インドに行ってみるか」と非常に軽い気持ちで、政府費留学生試験に受けたら受かっちゃったんですよ(笑)。


 適当に選んだ大学がボンベイ大学だったんですけど、そこで実践的社会科学という学問を学んだ。ソーシャルワークですね。日本でソーシャルワークというと、老人福祉とか医療とかをイメージすると思うんですけど、違うんですよ。本当のソーシャルワークっていうのは、個人のカウンセリングから社会政策の領域まで広がってるんです。つまりソーシャルチェンジという言葉をよく使うんですが、社会を変えることを目的にする学問なんです。


 特にコミュニティ組織論は後でものすごく役に立ちましたね。

人々を説得する方法、交渉の仕方、住民を横につなげる技術、それら話術で民衆を動かすテクニック、住民先導術を学んでました。

ボンベイ大学はこの学問に100年の歴史がありますからね、産業革命のときからですから。イギリスから革新的な技術が入ってきて、工業化が進むと、社会の最下層っていうのが生まれていくわけじゃないですか。そのときからですから筋金入りですよね(笑)。


スラム街40万人を組織

そうやってインドの大学でソーシャルワークを学ぶうちに、「世の中を変えるんだ!」みたいな気持ちになっちゃったんですよ。

元々自分の動機としてそういうものがあったわけではないんですが、刷り込まれちゃったんですね。インドは社会問題の宝庫なんですよ。そもそもカースト制度っていう身分制度と差別がある。あと農村の問題。農村なんかに行ったら、まだ原始時代のような生活をしてるし、スラムとかもたくさんあるしね。

 社会問題があるところには住民運動が起こるじゃないですか。でやっぱりそれに巻き込まれちゃったわけです(笑)。大学は一年で中退して、人口40万人のアジア最大のスラム住民組織を支援するNGOに転がり込んだんです。結局インドには4年間いたんですけど、あとの2年間は実践活動をしてました。

 そのスラム街で生活しつつ、住民運動を指揮してたんですが、その現場で、学んだ学問を実践できたんです。

ほんとに20万、30万人単位で住民を動かせちゃうんですよ

これはすごい力ですよ。

警察当局とか宗教団体に子供たちを中心に、数万人のデモをかけるとか。

ヒューマン・チェーンとかで抗議行動の輪を作って、ブルドーザーが来たって女性や子どもが前に立ちはだかったりね。

それを僕を中心とした住民とかソーシャルワーカーが組織するわけです。

そういうときはやはり、すごいダイナミズムを感じました。大衆を動かすことに酔いましたよね(笑)。

ひとくちに40万人のスラム街といっても、宗教によって大小さまざまなグループに分かれていて、中には敵対するグループもあるわけです。ヒンドゥ教とイスラム教とか。

でも大きな目標のためには宗教のカベを超えてひとつにまとまらなければならない。

そういうときはどうするかっていうと、どちらもwinの状態に導くわけですよ。

それはひとつの運動のなかで、両方の問題を解決するようにもっていく。共通の目的を見い出してまとめていくわけです。


 数10万単位の人間をまとめていくためには、やはりコーディネーター的な役割じゃないとだめ。

僕がアジテーションをして手を組むんじゃまとまりませんよ。

具体的には各グループ側にリーダーを作っていく。

これは小さな組織でもそうでしょ? 

たとえば僕が日本人として、外国で組織を動かすときにはやはり大きくなればなるほど、僕の言葉を代弁できる、彼らの中のリーダーを作る。だからある意味で系列のチームを作る。


腹心のリーダーをどうやって作るか? 

これが難しい。

自分がその人を好きだからということではなくて、本当に周りの人が認めて力がある人をリーダーとして立てる必要がある。

その調整が難しいですよね。

周りの人が認めていても僕が嫌いだったらダメだし、そういった人間を僕はなぜ嫌いなのか? と自分に問いかけなければいけない。

それは単に相手の能力が僕よりも上回っているから嫌いなのか? とか。

そういうときはけっこう自分を抑えますよね。基本的にそういう場合が多くて。

なぜかっていうと、僕も若かったから。みんな僕より年上ですからね。で、僕はこう見えても非常に謙虚な人間だから(笑)。


それをボランティアじゃなく、仕事としてやってたんです。NGOから「インド人のソーシャルワーカー」としてちゃんと月給もらってね。職として確立されているから、給料ももらえるわけですよ。それで生活してました。

 そうして市当局に対して、さまざまな不当命令に対する抗議デモ、法廷闘争などで、徹底的に戦ったんですが、ハデにやりすぎたせいかインド政府公安部からマークされて、国外退去命令を受けちゃった。それでしょうがないから帰国したわけです。



アフリカで国を動かす仕事に

PLAN INTERNATIONAL(注2)っていう国際NGOに就職したんですが、最初の6カ月間にリーダーシップトレーニングを受けて、組織の長としての知識・ノウハウを徹底的に叩き込まれました。欧米ではひとつの学問になってますからね。これは非常に有意義だった。


 研修後、最初の赴任地として派遣されたのがアフリカのシエラレオネ(注3)っていう小国だったんですが、最初聞いたときは、どこにあるんだ、そんな国は? という感じでした。でも特に迷いとか不安はなかったですね。家も引き払って、まだ生まれてから二カ月の長男、66歳のおばあちゃん、妻と家族全員連れていきましたから。どこででも生きていけるっていう気持ちはインド時代からあったしね。
 

 仕事はおもしろかったですよ。僕が赴任したのは13県あるうちのひとつの県でしたが、そこでほぼすべての公共インフラを整備しました。学校設置、職業訓練などの教育事業、診療所、病院設置などの医療事業、灌漑設備や種子倍増などの農業事業など、貧困削減につながる開発をすべてやった。結果、幼児の死亡率が飛躍的に下がるなど、かなりの成果を上げ、常にモデル県と見なされてました。当時の年間の国家予算が30億円くらいで、僕の事務所に割り当てられていた予算が数億円でしたからね。僕らがいないと政府が動かないって状態でした。国の政策にも介入しましたし、国会の指名で市会議員も一期務めました(注4)。


 仕事の醍醐味は、自分が企画した大きなプロジェクトを、人を動かして実現していくっていうこと。それが国の運営に直結してたからなおさらですよね。当時僕は28歳で、200人くらいのスタッフを指揮する管理職だった。いくらこちらが給料払っているスタッフでも、ただ命令しただけじゃ動かないんです。だからそのスタッフたちを動かすにはどういう準備をして、どう動くようにもってくかとか、いろいろ考えたり実行したりするのが、たいへんだったけど、楽しかった。
 ここでインドでの経験が非常に役に立った。

 インドと同じくシエラレオネ現地スタッフの中に僕の腹心を作ったんですが、その人たちっていうのは、僕よりも学歴が全然上でね(笑)。だいたいシエラレオネは教育が盛んなところで、西アフリカのアテネと呼ばれていたくらいの国ですから。シエラレオネ大学なんて250年の歴史がある。日本の慶応大学なんて比じゃないですよ。きれいな大学だったんですけど、当時は無政府状態だったんでかなり疲弊してましたけどね。でも、僕のスタッフだった人間は、その良き時代の学生で留学経験もあったの。アメリカとかイギリスのね。しかも半端な大学じゃなくて、ハーバード、ケンブリッジとかそういうのがいるわけです(笑)。そんな秀才を腹心にしないといけないんだから、たいへんさもわかるでしょう(笑)。

(注2 PLAN INTERNATIONAL)国連に公認・登録された世界最大規模の国際NGO。1937年、スペイン内戦で大量に生まれた戦災孤児を救うために設立された。以来45カ国で開発援助、130万人の子供たちを育てている。年商は約500億円。活動資金のほとんどは15カ国からの寄付に頼っているが、一番多く出している国はオランダ。日本では「財団法人 日本フォスタープラン協会」として活動している

(注3 シエラレオネ)人口30万人、大西洋に面したアフリカの小国。1971年、イギリスからの独立以来、軍事クーデターと内戦が繰り返されてきたが、2002年3月カバ大統領により国家非常事態の終了宣言がなされた。伊勢崎さんがPLAN INTERNATIONALの現地責任者として赴任したのは内戦中の1988年から1992年4年間。開発事業に加え、反政府ゲリラに対して、自警団の組織化、シエラレオネ警察の強化に努めた。その9年後、DDR部長として再赴任することになる。

(注4 市会議員) 外国人で市会議員になったのは伊勢崎さんが初


快適な暮らしにおばあちゃんも大喜び

意外に思われるかもしれませんが、暮らしも快適でしたよ。国際協力で現地に赴任する外国人の暮らしってのはVIP待遇に近いものがあるんです。使用人も使えますしね。だって、身の回りのことやってくれるんですよ。そりゃ楽に決まってるじゃないですか(笑)。日本はこんなに豊かですけど、普通、使用人なんて使えませんよね。事実、うちのおばあちゃんはアフリカに帰りたいっていつも言ってますよ。それくらい暮らしいいところだったんです。

 病気や治安の悪さも気にならなかった。実際、アフリカは白人の墓場だったけどね。マラリアとか黄熱病とかで。でもね、病気はどこにでもあるじゃないですか。だから気にならなかった。実際に僕、妻、子供はマラリアにかかっちゃったけど、死にませんでしたしね。おばあちゃんが一番元気だった(笑)。
 


天下りの理事と大ゲンカ

 シエラレオネで4年間開発と治安維持に尽力した後、ケニアで2年、エチオピアで5年同職務に従事。帰国後は、所属していた同じ国際NGOの日本支部「フォスター・プラン」に就職。しかし理事長と大ゲンカして8カ月で退職してしまった。
 
 フォスター・プランっていうのは、財団法人なんです。天下りの温床といわれている悪名高き公益法人(笑)。フォスター・プランは良い方で、理事会は無給でちゃんと奉仕していますが。でも、不可避的に、元官僚を理事に入れなきゃいけない。その連中と僕はぶつかっちゃったわけですよ。

一番決定的だったのは、当時「子どもの権利条約」を日本が批准した直後で、「子供の権利」っていうのが脚光を浴びたわけです。僕が現場でやってきたのは、まさに子供の権利を守るためであって、アフリカでもちゃんと予算をとって大々的に啓蒙活動をやってたわけですよ。それと同じことを日本もやらなきゃいけないと。当たり前のことでしょ?

 そしたら、理事の何人かが僕に噛み付いてきたわけですよ。「権利とは何ごとだ? 権利なんて言うキミはアカか?」ってね(笑)。「権利」っていうのはアカが使う言葉なんですって。それは青天の霹靂でしたよ。はあ、こうなのか……と(笑)。どんなにお金儲けてもNGOは社会正義を訴えることに意義があるのにね。弱者の権利っていうのは、絶対主張しなきゃいけない。

 この一部の元官僚の理事たちとは、その他のことでも激しくぶつかっちゃって。こっちはNGO魂=反体制ですからね。認識のギャップは大きすぎて埋まらなかった。だから8カ月で辞めたんです。

世界で最も優良な評価を得ているこの国際NGOも、日本に支部をつくるとなると、頭の硬直化した元官僚の年寄り連中を理事にしなければ社会的地位が得られない。悲劇ですね。



組織の使命と自分の使命がイコールでなくなったときに辞める

 会社やチームなどの「組織」がないと物事は動きません。ですから組織そのものを否定するつもりはないですけど、帰属の対象ではないんですよね。自分の思想とか文化、ポリシーまでも帰属させる対象ではないということです。
 組織は目的をもって作られますよね。それが大きくなってくると、組織の運営・存続自体が目的化しちゃう場合があるでしょ? 組織が間違ったことをしてると思っていても、その存続のために見て見ぬフリをしなくちゃいけない、とか。そういった個人のミッションと組織のミッションに食い違いが起きる場合もありますよね。組織が大きくなればなるほどそういう傾向は強まる。
 そうなったときに、潔く組織から出ていくということを、いつでも瞬時に決断できる状況にいました。もちろん今も、これから先もそれは変わらないでしょうね。

 
フォスター・プランを飛び出した伊勢崎さんはある国際平和協力系のシンクタンクに転職。中東和平の研究をしていたところに運命を変える電話が鳴った。外務省国連政策課からだった。ここから「紛争屋」としての新しい人生がスタートする──。


「組織は自分の思想・文化・ポリシーまでをも帰属させる対象ではない。」


次号では、いよいよこれまでに手がけてきた、武装ゲリラ相手のDDRについて熱く語っていただきます!
 

2006.1.9リリース 1 インドで40万人を指揮し アフリカで国づくり

2006.1.16リリース 2 東チモールから始まった 紛争屋への道

2006.1.23リリース 3 僕がDDRをやる理由 日本の右傾化に危惧

NEW! 2006.1.30リリース 4 やっぱり根底にあるのは ものづくりへの情熱


魂の仕事人 その2




 外務省の国連政策課の役人から「国連へ行ってくれないか」っていう電話が掛かってきたんです。それが始まりですね。詳しく聞くと、無政府状態に陥っているインドネシアの東チモールで国連が行うPKOのミッションに参加してくれってことだった。

内戦を終結させて、国をゼロから作っていくという仕事。

これはおもしろそうだと思って参加することにしたんです。



DDRという仕事

 さまざまな任務の中でも、DDR(注1)が一番たいへんでした。

DDRとは、Disarmament(武装解除)、Demobilization(動員解除)、Reintegration(元兵士の社会復帰、もしくは社会再統合)の略。

ゲリラや軍閥と交渉、説得して武器を捨てさせ、部隊を解体し、そして元兵士を社会復帰させる一連のプログラムのことです。

要するに紛争や内戦が勃発している国へいって、戦争をやめさせ、平和を取り戻す仕事ですね。


(注1 DDR) 責任者として本格的に指揮を採ることになったのは次のシエラレオネから
 やっぱり一番難しいのはDDの部分、武装解除と動員解除ですね。彼らにとって武器は命ですから。

 最初のD。武装解除とは文字通り武器を捨てさせること。その際には、自分の携帯している武器の分解・組み立てをさせるなどして、訓練を受けた兵士かどうかをチェックします。その上で自分で自分の武器を壊させます。このとき、何を思うのかほとんどの兵士が涙を流します。

 次に2番目のD、動員解除とは軍事組織を完全に解体すること。組織が残っていればまた内戦が勃発してしまいますから。だけど、巨大な武装組織になればなるほど、一気に全体を解体することはできない。

 どうするかというと、まず部隊の指揮系統を整備し直すんです。解体とは逆の方向では?と思うかもしれませんがそうじゃない。特に長期化している紛争では、指揮命令系統そのものが疲弊して使い物にならなくなっている場合が多い。すると統率力も弱まり、末端まできちんと命令がいかなくなってしまう。そうすると武装解除の命令なんて誰も聞かない。

 だからまず指揮命令系統から立て直して、司令官→隊長→兵士と命令が行き届くようにして、末端の兵士から順々に解体させていくというわけです。

 つまり「自分たちで自分たちを解体させる」んです。

 でも兵士を丸腰にして、軍事組織から解放しただけではまだ不十分です。銃がなくても社会の中でちゃんと生活できるようにしてやる必要があります。そのために行うのが最後のR。元兵士の社会復帰、もしくは社会再統合作業なのです。

 ゲリラ兵は何のために戦っているのかというと、自分の利益のためです。だから、紛争が終わることによって彼らが失うものを補填するとか、デメリットを少なくしてあげるというわけです。

たとえば何百人も虐殺したゲリラ兵でも罪に問わない、仕事がなくなる人であれば職を与えたり職業訓練を受けさせる、選挙に出たい人にはそのチャンスを与える、利権が好きな人にはそれにふさわしいポジションを与える、など。そうやって、殺し合いをしなくても社会生活を送っていけるような仕組みを作るわけですね。

東チモールを皮切りにシエラレオネ、アフガニスタンと次々に紛争国へ飛んではDDR、治安維持、インフラの整備など国の基盤を築いてきた。伊勢崎さんはDDRをどのように成功させてきたのだろうか。その成功の秘訣とは?


DDRを成功させるために

 和平の交渉というのは利害調整なわけです。握手をして、双方が何を得られるかということを話し合う。どっちもそれなりの対価がないと銃は降ろしませんよね? その対価をみつけてあげる。それに向けて、日本のODAなど、血税からくる国際援助のお金を効果的に投入するんです。
 紛争介入のタイミングは、国連で国際的な決議が行われるのがキッカケですね。で、紛争当事国政府が、僕らの介入を許すわけですよ。それまでは、当事国サイドも自分たちの力で解決しようとする。傭兵を雇って。イラクで傭兵会社の斉藤明彦さんという方が殺されて(注2)有名になったでしょ? あれで、やっと日本人は軍事産業というものの存在に気付いた。でもね、国に雇われる傭兵の存在は、ずっと前から顕在化していたんですよね、国際的に。警備会社って自分たちでは名乗ってるけど、実際は傭兵会社なんです。ゲリラと戦うためのね。なぜ国が傭兵を雇うかというと、自分たちの国軍があてにならないから。クーデターとか仕掛けられちゃったりするから(笑)。あてになんないでしょ? そうすると、お金の力で兵を集めるしかないと。これが紛争、対ゲリラ戦の現実なんですね。
(注2 斉藤明彦さん〜) イギリスのグローバル・マリーン・セキュリティシステムズ社のスタッフとして、イラクのバスラ空港の警備にあたっていた斉藤明彦さんが、武装勢力・アンサール・スンナ軍の攻撃を受け死亡した事件
 武装解除と動員解除はあくまでも武装勢力を精神的に追い込んだ状態でやらなきゃならない。大体僕らが紛争に介入するときは、ボクシングでいうとタオルを投げ入れる状態。ほんとうに打ちあっている状態ではなくて、どちらも疲れてきてグッタリしているとき。じゃないと介入できませんから。その前に入っていくと、こっちも殴ることになっちゃうから。そうすると三つ巴になっちゃって武装解除どころじゃなくなる(笑)。
 その一番悪い例がイラク。疲れてないのに武力介入したから。しかもどんな武装勢力も上回る国際部隊としての軍勢力で行っちゃって、結果的に数万人殺してるわけですよね。女性、子供含めて。あれは平和目的の軍事介入としては完全な失敗です。でも失敗を認めたら、ブッシュ政権がダメになる、すると小泉さんもダメになるから日本も一応頑張ってバックアップしてる。泥沼みたいになってますもんね。ああなったら最悪ですよ。
 で、ぐったりしているところへ、もうやめようよ、このまま続けててもいいことないよ、と持ちかけるわけです。さらに戦争を止めたら恩恵まで与えるからってね。つまり彼らにとっては渡りに船の状況を作ってあげるんです。



DDRの問題点

 でもね、このDDRの最後のR=恩恵を前提に話をしてはいけないと思うんです。
 現状ではほとんどの兵士が罪に問われていないのですが、一番いいシナリオは、全員無条件に許すんじゃなくて、どこまでが許されて、どこまでが許されないのかという線引きをして、それをベースに和平を進めていくということなんです。でもその線引きが難しい。特にアフリカの場合はそれが一番問題になってます。
 司令官、いわゆる命令した人間は裁かなきゃいけないというのは常識としてあるんですよ。でも、どこまでを司令官とするか? 軍にもランクがあるじゃないですか、中佐とか少佐とか。アフリカの場合は、またこれも複雑なんですけど、みんな「将軍」みたいな(笑)。
 だから名称だけでは判別できない。指揮官といっても、何人指揮していたのかなどを把握しなきゃいけない。これは記憶をたどるしかないし、証言を取るしかないでしょう? で、調査したら指揮官が数百人になっちゃうと。そうすると、これは裁けるわけがない。正義を執行しようとして兵士を裁くとなると、国際法廷を維持するだけでも、莫大な金と時間と労力がかかります。ひとり裁くのに何年もかかるわけですから。時間が経てば経つほど、記憶も薄れて証拠もなくなっていくわけだし。調べていくうちに大量殺人の跡の墓地とか出てくるでしょ? あんなのも、発掘しなきゃいけないんですよ。それをするのにも大変な金がかかる。地雷を探すのと同じようにやってるわけですから。過去の例を見ても、10人未満でも、裁くのに10年以上かかる。だから裁けるのは10人以下ですよね。
 もうひとつは、未成年の問題があります。国際的な取り決め、「子どもの権利条約」に違反するから、通常は18歳以下の子供は裁けないんですよ(注3)。国際社会は、少年兵にはあくまでも同情するべきだっていう見方なので。
 こんなふうに正義を執行しようとすると相当な根気とエネルギーとお金がかかる。その割りにちゃんと裁ける人数はごくわずか。だったら全員許しちゃったほうがいいんじゃないかって、そういうふうに動いてるわけですよね。やっぱり国際正義は金次第です。そういうもんなんですよ。それで収めなきゃいけないというのが現状です。

(注3 通常は18歳以下の子供は裁けない)例外もある。シエラレオネの場合はその基準が15歳以下に引き下げられた。国際的な基準を内戦に適用すると裁けなくなる可能性があるからというのがその理由。伊勢崎さんは「これは画期的なこと。国際的に、日本も含めて少年犯罪を考える意味で、かなり意義がある」と語る


正義は執行されるべき

 でもね、正義を執行しないと虐殺は再発しますよ。だって、何百人も殺した兵士が罪に問われることもなく恩恵まで受けられるんなら、本人も、そういうのを見た子供たちも、同じことしようと思いますよね。何やっても許されるんだって思ったら。悪循環ですね。
 紛争被害者にしてみればたまったもんじゃないですよね。自分の親、兄弟、妻子を殺したり、手足を切ったり、レイプしたり、やりたい放題してきた兵士を、平和のために銃を捨てたんだから、許してあげましょう、和解しましょうって言われても、はい、そうですかってすんなり受け入れられるわけがないじゃないですか。そこはやっぱり被害者にも感情移入してあげなきゃいけないんですよね。でも日本を筆頭に先進国の人たちはそれができない。日本の若い人たちは、自分の立場に置き換えて考えてみてといっても「許せるんじゃないかな?」とか「暴力では何も解決しない」とか「復讐は暴力の連鎖を招くだけだ」なんていうんですよ。
 だからDDRという言葉を定着させてしまうと、これからの紛争予防に全くつながらないばかりか、逆に大量殺人を誘発してしまうようなことになるんですよ。だから、僕は武装解除はRは見せずにやるべきだ、DDRはパッケージ、つまりひとつのものとして考えるべきではないと主張しています。ところが今、DDRはどこでも出てくるんです。日本のODA大綱にも出てくるし、国際社会もDDR基金をつくるとか、大げさなイニシアチブができている。これは非常に危険だと思います。


 武装したゲリラ兵がひしめく紛争地へ非武装で乗り込んで行く伊勢崎さん。もちろん交渉が長引くことは日常茶飯事。ジレンマの連続。そして一瞬の気のゆるみが即、死につながる世界。イラクでは日本人ジャーナリストや外務省職員が武装ゲリラに襲撃され殺された事件も記憶に新しい。死の危険と隣り合わせの極限の世界のように思えるが、「命なんて賭けてない」と伊勢崎さんはあっさり言い切る。


うまくいくコツなんてものはない

 武器を頼りに生きてきた人間に武器を捨てろというんだから、交渉が長引いたり、なかなか理解してもらえない場合ももちろんあります。うまくいくことばっかりじゃないですよ。そのくり返しが成功に見えるだけで。スムーズになんか絶対行きませんよ、全てが。でもあきらません。あきらめたらおしまいですからね。武装解除の現場で、交渉が決裂したからやめるということはありえない。僕らは平和への活路を開くためにやってるわけなんで。
 うまくいくコツなんてものはないです。忍耐力が勝負ですから。やっぱりあの手この手考えてやるわけですよね。だから、すごく粘りが必要な仕事です。それは説得する相手に対してだけじゃなく、逆に後ろ側=味方に対しても同じです。僕を送り出してる国連や日本政府が思うように動かないってことも多々あります。そっちのジレンマの方がつらい。アフガンのときはホントにつらかった。だからそうされないように身内の中でも自分の組織をがっちり固めることが一番大事なんですよね。



日本にいたって死ぬときは死ぬ

 PKOの現場は、いつ戦闘状態になってもおかしくない状況です。交渉の席で兵士がいきなり銃を撃ち出したりとか、事故は起きますよ、いろんな形で。たぶんそういうことをやる連中っていうのは、ちょっと頭がおかしいんですよね。まあ、尋常じゃないから戦争が長引いているわけで(笑)。やっぱり我々は、常識のある指導者を通して、活路を開こうとするでしょ? それに反発する鉄砲玉みたいなのがいるんですよ。そういうのが発砲したりするわけです。
 僕らの仲間が拘束されて数カ月間、人質みたいな状態になったり。ときには殺されちゃったりする人もいます。国連PKO活動では、必ず死者が出ますから。シエラレオネの活動では100人以上の殉職者が出てますしね。
 でも基本的にそれほど危険な仕事ではありませんよ。確かに武装解除や交渉の現場では、あちらは当然武装しているけど、僕らは非武装です。でもこちらは暗黙の抑止力として周辺地域を多国籍軍で固めたりしますから。そうやって治安を確保してから出ていくわけです。
 命懸けでやってるように見える? 全然! そんなことないですよ。僕にはSPがついていたこともあったし、本当に危険なところには絶対行きませんからね。だから身の危険を感じたことはないですね。紛争地ですから事故で死ぬ場合もありますけど、それはしょうがないですよね。日本にいたって事故で死ぬときは死ぬんだから(笑)。

 
次回は実際に指揮を採ったシエラレオネとアフガンでのDDRについて詳しく語っていただきます。特に激しい内戦で大量虐殺が行われ、国そのものがボロボロになったシエラレオネでのDDRでは、兵士のおこなった行為を聞くだけで全身にトリハダが立つほどのおぞましいものでした──。
また、そもそも縁もゆかりもない遠い異国で、危険を冒してまで働くのはなぜか。そのモチベーションの源泉に迫ります。



「仕事を成しとげるために最後の最後まで粘る。

あきらめたらそこですべてがおしまいだから。」


魂の仕事人 その3




惨劇のシエラレオネ

 これまで手がけたDDRの中で一番キツかったのは、東チモールの次に行ったシエラレオネですね。このときも国連から派遣されるという形で行きました(国連シエラレオネ派遣団DDR部長として)。1988年1月から内戦に突入する直前の1992年3月まで国際NGOの責任者として僕が働いていた事務所はもちろん、精魂込めて作ったインフラがほぼ破壊しつくされていました。

 とにかく相手がまともな連中じゃなかった。朝から麻薬やって、交渉の現場でもラリったまま実弾の入ったピストルをくるくる回してるんですからね(笑)。ほんとにいつ撃たれるかわからない。ロシアンルーレットまがいのことをやられた同僚もいたしね。

 特に下っ端の少年兵とかはコワかったですね。10代のはじめから少年兵として雇われて、殺し方があまりにも残酷なんで、名を馳せて司令官になったとかね、そういう10代、20代の司令官を相手にしなきゃいけないわけです。これはきつい。ほんとにまだ子供で、何するかわかりませんからね。

 シエラレオネの内戦では、そのゲリラの少年兵が村の子供の手足を生きたまま切るとか目玉を抉り取るなんてことが日常的に行われてたわけですが、どうしてそこまで残虐なことをしたかはわかりません。彼らはいろんな言い訳をするんですよ。麻薬を打たれてたとか、命令されてやったとか。ひと思いに殺すよりも手足を切ったりしてまともに働けない人間を増やしたほうが、倒したい現政権にとっては負担になるからということなんですけど、そこまで考えてないですよ彼らは。絶対に楽しんで人間を殺してたね。

 中でも最も残虐だったのは、少年兵同士の「賭け」ですね。対象は妊婦。おなかにいる子供は男か女か? っていう賭け。で、妊婦の腹を割いて勝ち負けを決める。その後妊婦も子供もそのまま放置しちゃうから、当然死んじゃいますよ。これは非常に広範囲でやられたギャンブルなんです。遊び半分で人を殺す。ひどいですよね、本当に。狂気の世界ですよね。おぞましいですよ、証言とか集めていると。身震いしますね。

交渉は麻薬が抜ける夕方以降に

 そんなまともでない連中とどうやって話をするかって? まずは麻薬が抜けるのを待つ(笑)。夕方くらいから始めます。具体的な交渉、説得は、もっと上の指導者とします。そのクラスになるとさすがにまともに話ができますから。
 彼らも12年間戦ってね、子供の手足をもいで、妊婦の腹を割くなんて、それはもう完全に常軌を逸してる状態なんです。やってる人間もそれをわかってる。自分でもどうしようもない状態になってるんです。
 そんな中に我々が介入する。ある一定の恩恵をちらつかせながらね。そういうゲリラに銃を捨てろというときには、恩恵が必要なわけです。だけどまず恩恵ありきになるとよくないというのは、先に言ったとおりです。やったもん勝ちになってしまいますからね。



シエラレオネのDDRを完了した伊勢崎さんは、今度はJBIC、国際協力銀行から「アフガニスタンを題材に『紛争と開発』というテーマで日本のODAに政策提言せよ」ととの依頼を受ける。アフガニスタンでの2週間の調査を終えて帰国した伊勢崎さんにまたしても外務省から連絡が。今度は、日本主導でアフガニスタンのDDRを行うことになったからその指揮を採ってほしいという。なぜ日本が? 一瞬耳を疑った伊勢崎さんだったが、2003年2月、再びアフガニスタンはカブールに降り立った。そこでまたしても大きな試練が待っていた。



軍閥よりも味方に不安を抱えたアフガンDDR

 アフガニスタンDDRもたいへんでしたね。アフガンは多民族国家で、当時9つの軍閥が互いに覇を競い合う群雄割拠状態でした。そんな彼らにとって、武器は武士の刀と一緒。「魂」なわけです。それを取り上げるということは、口に出して言えなかったですよ、あの社会では。だから武装解除っていう言葉はタブーでした。
 それをどうしたかっていうと、周りから固めていったわけです。僕ら外国人が言うんじゃなくて、世論として、国民の総意として武装解除しなくちゃだめだと。武装解除に抵抗している軍閥は、民衆の支持を得られないと。そういうムードづくりをしたのは、全部僕ら、日本政府のチームなんです。
 でも体制的にはとてもつらかった。アフガンDDRは国連の一員じゃなくて、日本政府の一員として取りくんだんですが、DDRなんて日本はやったことないわけですよ。どんなものかもわからない。よって危機管理、保安管理という概念がない。中には武装解除をしたくない軍閥もいて、刺客が送られるとか真剣に想定しなければならないんですけど、武装してないから身を守る術もないしね。非常に心細い思いをしました。

 さらに日本のダメなところは、武装解除を主導して成功させたのに、それをアピールしないんですよ。

国内にも海外にも。現地政府国防省の首脳部の人事にまで介入して、軍人組織を解体したんですよ。

さらに武器を回収して、整備までして新しい国軍を作ったんですよ。極めて軍事的なオペレーションでしょ? それを日本の血税を使ってやったんですよ。

しかも自衛隊を使わずに。そういうことをみんな知らないでしょう? だから国益になってないんですよ。そういう意味では失敗だったと思ってるんですけどね。
 

紛争はなくならない

 紛争はなぜ起こるのかって? 大きな理由のひとつに「貧しさ」が挙げられるでしょうね。そう考えるのがいちばんすっきりしますからね。だから、貧困をなくせばいいと思うでしょ? それが正論なんですけども、じゃあ果たして本当に貧困をなくせるかというと、現時点ではそれは不可能だと僕は思います。
 そもそも貧困削減とか国際協力をしなくちゃいけないという概念自体が新しいんですよ。戦後、国連ができてからの話ですからね。それからもう半世紀も経ってるわけでしょ。で、果たして貧困は削減できてるのか。逆でしょ? 貧富の差がどんどん広がってる。アフリカなんかどんどん貧しくなっていってるわけですよ。
 だから、貧しさが紛争の原因で、貧困をなくせば紛争がなくなるというのも正論なんですが、貧困はなくならないわけです。なくせたとしてもですよ、到底1、2年ではなくならない。ところが紛争というのは今起こっている。だからそれに対する解決には全くならないですよね。



アジア、アフリカの小国、中東の軍閥国家など、縁もゆかりもない危険な紛争地帯へ乗り込んで平和維持活動に尽力する伊勢崎さん。彼を駆り立てるものは何なのか。



ほかにできる人がいないからやるだけ

 そもそも最初からDDRをしたいと思っていたわけじゃないんですよね。むしろ、まさか自分がやるとは思わなかった。だから動機はないんですね。なりゆきでそうなっちゃった。
 じゃあおもしろいからやるのかって? とんでもない! DDRって仕事はぜんっぜんおもしろくない! 朝からラリってる少年兵や「武器は魂」っていう兵士とかを相手にしなきゃいけないんだから、おもしろいわけないでしょ(笑)。そもそも交渉事とか得意じゃないし、性格も内向的だしね。
 じゃあなぜやるか。基本的にやってくれと頼まれるからです。僕のほかにできる人がいれば、そちらに頼んで下さいと言いたいけど、なかなかいないですからね。
 使命感っていうのでもないですね。この世界から紛争をなくすために、なんて大それたことは全く思っていません。自分が生きているうちは、非戦は実現できないと思ってますから。自分が生きている間にできない理想を言ってもしょうがない。非戦を信じるんだったら、宗教家になったらいい。理想のために死ぬつもりもありませんし。



紛争屋を定職にするつもりはない

 しいていうならば、インド時代からそうですが、どうしても社会的弱者、スラムとかホームレスとかに、目がいっちゃうんです。手を差し伸べるとかそこまではしませんけど、何とかしてやりたいって思う。無視できません。だいたい視野に入ってきますよね。これはしょうがない(笑)。
 なぜかって・・・・・・。小さいころの体験がベースになってるとしか考えられない。少年時代は貧しい暮らしでしたから。
 でもね、新しい国に入って、その国、社会の本質・真髄を理解しろって言われたとき、一番いいのは弱者の視点から見ることなんですよ。これが一番手っ取り早く見える。だから逆によかったのかなと(笑)。
 あとは、たぶん世の中の役に立っているんだろうなあと思うからやる。それなりに意味のある仕事なんじゃないかと。ある程度食いぶちが稼げるならば紛争処理を職業としてもいいかなという思いがあるだけで。だから命懸けでやってるつもりもないし、この道一筋的なノリで一生やるつもりもありません。
 DDRとは、戦争犯罪に対してReward(恩恵)を与えることですから、いわゆる「正義」を建前として持っていたら、とてもできる仕事ではありません。でも、アメリカが「正義」を掲げてイラクを侵略したお陰で、昨今は「正義」が政治的に乱用されていますが、やはり少なくとも自分にとって何が正義なのかを見つめる瞬間は、僕にとって絶対に大事です。
 紛争屋に限らず、一つの組織で、同じような作業を継続的にやっていく場合、その作業が社会に影響を与えるものであればあるほど、「切れ目」が必要だと思います。


親父の存在はそれほど重いものではない

 紛争地に行くときも、たぶん女房や子供は僕のことを心配してると思うんですが、僕は家族のことは心配しないですよ。だって、ちゃんと保険もかけて行きますからね。保険金とかは高額に設定しますよ。アフガンに行くときは外務省と交渉して、僕が死んだときは1億300万円が支払われるような念書を交わして行きました。300万円は葬式代(笑)。そういうのがちゃんとしてないと行きません。
 もし万が一僕が死んでいなくなっても、当面のお金があれば人間って生きていけるもんですから。あんまり残すと、子供がスポイルされちゃう恐れがあるけど(笑)。僕、親父がいなかったんですが、ちゃんと育ちましたからね(笑)。そんなにね、親父の存在って重いものじゃないと思いますよ。
 だから家族のためにやりたい仕事をあきらめたことはないですね。シエラレオネ(注 内戦前のNGO時代)にも家族全員連れてってますからね。家族の存在は基本的には関係ないですね。
 子供には早く独立してもらいたいです。基本的に一流大学なんかに行かなくてもいいから、早く独立して欲しいですね(笑)。

今この瞬間にも世界のどこかで繰り広げられている紛争・内戦。泣くのはいつだって力のない一般民衆。国連の一員として日本もさまざまな形で貢献しているように見えるが、国際協力の観点から見たとき、その協力の仕方は間違っていると伊勢崎さんは言う。



最近の日本の右傾化に危惧

 僕はこう見えても愛国者なんですよ(笑)。でも右翼じゃないですよ。日本って愛国者っていうと右翼だと思われちゃう。こういった感覚っていうのも、日本だけですよ。
 最近、愛国者としての僕が危惧と怒りを感じているのが、「右傾化」。最近あまりにも日本が右傾化しているでしょ? 何かといえば自衛隊を出したがる。全然役に立ってないのに。ほんとですよ、コレ。外交的にも役に立っていればいいんだけど、本当に役に立ってないんだもん。
 いや、それは何でもやれば多少の役には立ちます。イラクに派兵された自衛隊だって現地の役に立っていないわけじゃない。でも、僕が言ってるのは役に立つ度合いのこと。あれだけお金をかけて、武装した組織がなんであんなことやんなきゃいけないの?
 東チモールのときもそうだけど、日本は今、国際協力しようというときに、すぐ大量に自衛隊送るじゃないですか。津波が起これば自衛隊、地震が起きれば自衛隊っていうふうに。小泉政権になってからそういう流れになってますよね。これは非常に間違ったことです。
 先進国における国際平和協力の派兵というのはね、大量に人員を送らないんですよ。アメリカは別として。そうではなくて、例えば紛争国があったとしたら、その国にね、良い国軍を作っていかに社会を安定させるか、住民に優しい警察力をどうやって作ってあげようかとか、そういうことをするのが、本当に頭のいい近代国家、お金と思慮のある先進国のやるべきことなんですよ。
 先進国の中で、唯一そういうことをやってないのは日本だけ。大量に派兵するのは、発展途上国がやってるの。パキスタンとかね。パキスタンを別にばかにしているわけじゃないけど、国連PKOでは非常に多く派兵している国なんです。なぜかっていうと、外貨稼ぎのため。軍を多く出せば国連から外貨をもらえますからね。
 それと全く同じことを日本はやってる。でも、外貨を稼ぐ必要はないわけです、我々は。じゃあ何のためにやってるのか。アジア近隣諸国に対する示威行為ですよ。やろうと思えば、これだけの規模の軍隊をいつでも、すぐに送れるんだぞというね。
 また、そうすることによって日本国内の右傾化した人たちが喜ぶからです。政治に利用されてるわけです。これはいかんでしょ? 僕はね、軍……あえて自衛隊を軍と呼びますけど、その軍は平和のために有効的に利用しなきゃいけないと思います。そうじゃなきゃ第二次世界大戦の反省がまるっきりされていないということになりますからね。
 メディアの責任も大きいですね。自衛隊が行けば役に立っているって報道するんで、そういう方向に動いちゃってるじゃないですか。みんな自衛隊の派兵にアレルギーがなくなっちゃってるでしょ?
 こういう状況にかなり頭に来てるので、愛国者という観点からそうじゃないと訴え続けていきたいし、もし必要であれば、自衛隊なしで成功させたアフガンDDRみたいな例をいくらでも作っていきたい。そういう使命感はあります。だから僕の授業や講演で若い人たちに積極的に話もしています。
 愛国者でね、憲法9条が好きで何が悪いんですか? 国の最高法規を愛するのは当たり前じゃないですか? 僕はそういう気持ちなんですよね。

 
今、伊勢崎さんは大学院の教授として危機管理やマネジメント論を教えている。まさか教職につくとは思っていなかったと語る伊勢崎さんだが、やってみたらとてもおもしろいと感じている。
最終回の次週では、大学で教えるということから、伊勢崎さんにとって仕事とは? 家族とは? そして今後の夢について熱く語っていただきます。


「社会的な影響力が大きい仕事ほど『切れ目』が必要。」











プロフィール

 

いせざき・けんじ 



1957年7月東京生まれ。建築家を志し、早稲田大学理工学部建築学科に入学するも途中で「建築学」に失望し、インド国立ボンベイ大学大学院に留学。

●1983年4月〜1987年6月
大学院で学んだコミュニティ組織論、交渉術等を駆使し、スラム街に住みながらプロのソーシャルワーカーとして40万人の住民運動を指揮。ボンベイ市当局と壮絶な戦いを繰り広げる。大学院は前期で中退。あまりに苛烈さからボンベイ市公安局から国外退去命令を受け帰国。

●1988年1月〜1997年2月
世界最大規模の国際NGO「PLAN INTERNATIONAL」に就職。シエラレオネ共和国の現地事務所所長として、農村総合開発を計画、実施。国のインフラを整える。ケニア、エチオピアでも同様の事業に従事

●1997年3月〜1998年9月
財団法人 日本フォスター・プラン協会に転職。国際援助部長として予算管理、広報戦略を担当

●1998年10月〜2000年2月
財団法人 笹川平和財団に転職。主任研究員として中東和平に関わる

●2000年3月〜2001年5月
国連東チモール暫定統治機構の上級民政官としてコバリマ県の県政を指揮。DDR、治安維持、開発インフラの復興を手がける

●2001年6月〜2002年3月
国連シエラレオネ派遣団、国連事務総長副特別代表上級顧問兼DDR部長として、内戦後のシエラレオネでDDRを総合的に指揮

●2002年4月
立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科の教授に就任

●2003年2月〜2004年3月
日本主導で行われたアフガニスタンDDRを指揮。軍閥の解体、国軍の再構築を実現

●2004年4月〜現在
立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科の教授に復職
リスクマネジメント、コミュニティ組織論を教えている
※立教大学・伊勢崎研究室

●2005年12月
外務省の依頼で内戦終結したインドネシア・アチェへ。目的は日本がアチェの復興にどう協力できるか、視察。

『武装解除 ─ 紛争屋が見た世界』(講談社)


『東チモール県知事日記』(藤原書店)


『NGOとは何か ─ 現場からの声』(藤原書店)


『インド・スラム・レポート』(明石書店)


『紛争から平和構築へ』(論創社)




など著書多数。講演、新聞、雑誌、テレビ等各メディアに出演、NGO、国際平和実現、国際援助のあり方等について発言している
 

 
おすすめ!
 

『武装解除』(講談社)



これまでの伊勢崎さんが手がけた国際援助、途上国開発、DDRが詳細に書かれた一冊。キレイごとではなく、国際援助、和平実現の在り方が本音で書かれてあるため、今後こっちの方面に進みたい人は必読。特に幼少期のエピソードに国際援助へのモチベーションの源泉が垣間見えて興味深い。
 

 
お知らせ
 

魂の仕事人 書籍化決!2008.7.14発売 河出書房新社 定価1,470円(本体1,400円)

業界の常識を覆し、自分の信念を曲げることなく逆境から這い上がってきた者たち。「どんな苦難も、自らの力に変えることができる」。彼らの猛烈な仕事ぶりが、そのことを教えてくれる。突破口を見つけたい、全ての仕事人必読。
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DDRとは ウィキペディアより

武装解除・動員解除・社会復帰(Disarmament, Demobilization, Reintegration)- 主に国連が行う国際平和活動の一種。









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