2015年6月20日土曜日

曹洞宗 長圓寺

2015年6月20日


気になる。

狭山丘陵寺社めぐり 26 長円寺  (武蔵村山市本町) サイト 



長圓寺

東京都武蔵村山市本町3丁目40−1
電話:042-560-3900


曹洞宗寺院の長圓寺は、龍澤山長圓寺と号します。長圓寺は、華山秀委和尚(天正19年1591年寂)が開山となり永禄11年(1568)に創建したといいます。

サイト「猫のあしあと」より
















地頭 大河内氏の墓

江戸時代の武蔵村山市域には、中藤村、横田村、三ツ木村、岸村の4か村がありました。これらの村々の多くは幕府の直轄地である「御料」でしたが、三ツ木村だけは明治を迎えるまで御料と旗本の領地である「私領」とが混在していました。三ツ木村を治めていた旗本は江戸時代初期には藁科氏と大河内氏でしたが、その後大河内氏だけとなり、「地頭」と呼ばれていました。
 長円寺境内には大河内氏の三代忠次と五代忠政の墓石があります。忠次の墓石は高さ210センチメートルで寛文2年(1662)の銘が見え、忠政の墓石は高さ103センチメートルで宝暦3年(1753)の銘が刻まれています。また、長円寺には大河内氏初代の勘解由左衛門忠正から八代忠春までの位牌も残っています。なお、江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』の大河内氏三代忠次の項に「(寛文)2年12月26日死す。年67。法名了無。武蔵国多摩郡中藤村の長円寺に葬る。」と記されています。

サイト「武蔵村山市歴史民俗資料館」 より










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参考

小平市小川町を開拓した小川九郎兵衛の墓もここにあるらしい

小川九郎兵衛は、元和8年(1622)に多摩郡岸村(現武蔵村山市岸)に生まれ、明暦2年(1656)、34歳で小川村(現小平市)の開拓と馬継場の開設に尽力した。寛文9年(1669)、病を得て48歳でその生涯を閉じている。九郎兵衛の墓所は、小川名主家の菩提寺である医王山小川寺(小平市)と終焉の地、岸の岸清山禅昌寺の二か所にある。

サイト「サイクリング・小川九郎兵衛の墓を訪ねる」 より

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大河内 武蔵村山で検索

・大河内一男  p8「社団法人 武蔵村山市シルバー人材センター 仲間と乾杯!」

 ※p3 武蔵村山市議会議長 比留間市郎

大河内一男 ウィキペディア 経済学者 1905-1984

 松平信綱の末裔で、父は講談や児童向け読み物の作者であり、日本の速記史上の重要人物でもある大河内翠山。長男に経済史家の大河内暁男がいる。




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