名主や飢饉の様子に興味がわきました。
武蔵村山市歴史民俗資料館
歴史散策コース
大河内家
荒田家
増尾家
乙幡家
指田家
進藤家
比留間家
比留間というこの苗字は大化の改新以前からある歴史ある苗字
ひるま家のルーツはどこ? より
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双盤念仏(薬師念仏鉦はり)
無形民俗文化財平成3年3月指定
所在地 三ツ木3-22-3
保持団体 宿薬師念仏鉦はり保存会
双盤念仏は平安時代以来の引声念仏の流れをくみ、鉦(4個)と太鼓(1張)を打ち鳴らしながら、これに合わせて独特の節をつけて念仏を唱える仏教行事です。武蔵村山の双盤念仏は薬師念仏鉦はりといい、宿薬師堂で行われます。太鼓の胴の内側に記されていた墨書により文化11年(1814)が鉦はりの起源と推定されています。昭和43年までは青年団の構成員によって受け継がれてきましたが、現在では宿薬師念仏鉦はり保存会が保存伝承に努めています。
薬師念仏鉦はりは、毎年10月8・12・22日に行われています。
cf. 双盤念仏(そうばんねんぶつ) 九品仏浄真寺 閻魔堂 平成26年 世田谷区 YouTube
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指田日記
有形文化財(平成15年6月に種別変更)
昭和51年4月指定(平成15年6月に「明治4年分」を追加指定)
所在地 中央3-50-1
所有者 指田和明
指田日記は、武蔵国多摩郡中藤村の陰陽師で神職でもあった指田摂津正藤詮が天保5年(1834)から明治4年(1871)までの38年間書きつづった日記です。日記は16冊に分かれており、現在の武蔵村山市内及び周辺地域の世情や産業、風俗、慣習などを知ることができる貴重な資料です。天保5年から明治3年までの15冊は大半が楷書で書かれており、中でも黒船来航や安政の大地震の情報が極めて正確であることから、後年、藤詮の指示により子息の鴻斎が抜粋、清書したものと推測されていました。それを裏付けるように、近年発見されて追加指定した「明治四年辛未日記」は、前15冊とは違い横帳の体裁に草書体で書かれており、これこそ藤詮が亡くなる直前まで書き記した自筆の日記であることがわかりました。
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地頭大河内氏の墓
旧跡
昭和51年4月指定
所在地 本町3-40-1
所有者 長円寺
江戸時代の武蔵村山市域には、中藤村、横田村、三ツ木村、岸村の4か村がありました。
これらの村々の多くは幕府の直轄地である「御料」でしたが、三ツ木村だけは明治を迎えるまで御料と旗本の領地である「私領」とが混在していました。三ツ木村を治めていた旗本は江戸時代初期には藁科氏と大河内氏でしたが、その後大河内氏だけとなり、「地頭」と呼ばれていました。
長円寺境内には大河内氏の三代忠次と五代忠政の墓石があります。
忠次の墓石は高さ210センチメートルで寛文2年(1662)の銘が見え、忠政の墓石は高さ103センチメートルで宝暦3年(1753)の銘が刻まれています。また、長円寺には大河内氏初代の勘解由左衛門忠正から八代忠春までの位牌も残っています。
なお、江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』の大河内氏三代忠次の項に「(寛文)2年12月26日死す。年67。法名了無。武蔵国多摩郡中藤村の長円寺に葬る。」と記されています。
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